DIARIUM MEUM PERSONALIS

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『中核VS革マル』(立花隆著)を読む

蔵書の整理をする過程で、ついでに昔買った本を読み返したり、買ったまま読まずにいた本を改めて手に取ったりしています。やはり本は読み返すと面白い。読み返そうと思わせる本だけが自分にとって重要な本だと改めて認識しました。

今回紹介したいのは、立花隆著『中核VS革マル(上)(下)』(講談社文庫)。1975年(昭和50年)に発行された本の文庫本です。手元にあるのは、(上)が2004年の25刷で、(下)が2002年の24刷です。

 

『中核VS革マル』はどういう本?

  • 内容:70年代半ばまでの中核派革マル派の「内ゲバ」を詳細に記述
  • 読みやすさ:クロニカルかつロジカルで読みやすい
  • オリジナリティ:この分野では今なお唯一無二
  • 知的啓発度:いろいろ考えさせられます

『中核VS革マル』に書かれていること

著述スタイルはジャーナリスティックで、出来事を時系列的に整理して紹介しています。事態が少しずつ、ときに急激に過激化していく様子が客観的に記述されていて、なかなか物語性があります。

昔は中核派とか革マル派といえば、怖い人たちという印象しかありませんでしたが、こうやって丁寧に流れを見ていくと、「気が付いたら後戻りができなくなった」という状況に追い遣られていたことがわかります。

決して彼ら自身が被害者だったという意味ではありませんが、いつの間にか相手を潰さなければならないと思わざるを得ない状況になっていたと思わせる記述で、説得力があります。

彼らが革命という目的を見失って内ゲバに走ったのは、結局のところ自派の組織引き締めという目の前の目的を重視したためだと著者は見ているようです。革マル派でいえば、たとえば動労国鉄労働組合のひとつ)という一種の既得権を守るための「戦い」をしていたことが明らかにされています。

 

 

より大局的な見地に立って共闘することができなかったのかと、現代の人間は訝ります。しかし、左翼運動の国際的な退潮のなかでは、やはり「残ったパイの奪い合い」しかできないのが人間社会なのでしょう。「パイを大きくするために手を取り合う」という発想は彼らにとってはすでに非現実的だったのです。

社会党左派と共産党が共闘できなかったように、また民主党(90年代以降のほう)と公明党が共闘できなかったように、ヴィジョンだけでは政治活動をともにすることができないのだと改めて思わされます。レイプハルトが考えるように、国家を作る社会の数だけ政党があるということです。

『中核VS革マル』から何を学べる?

本書はスリリングな事態の展開をわかりやすいロジックで説明していく、かなり知的な作品です。殺人を繰り返す団体を感情的に非難するようなことはなく、ただ彼らのロジックで展開される世界を記述しています。

社会の見方を改めて学べる本です。

また、パソナのために派遣労働を認め、雇用が不安になった結果、落ちるところまで落ちた日本経済。その発端は、軽率で皮相な団塊のおじいさんたちによる労働者と労働組合の軽視にあるのだとわたしは思います。しかしながら、左翼側が自滅したのも事実です。

内ゲバの時代が終わると軽薄な日本賛美の時代が始まります。「こんな日本を見るくらいなら、いっそ早く死んでいたら」と思った理想主義者もいるに違いありません。しかし、それはまた別の場所で語ることにしましょう。

ともかく、社会・組織・人間関係をいろいろな角度から見てみたいと思うなら、この本を読んで損することはないでしょう。ただし、念のため言っておきますが、これは万人に推奨できる本ではありません。