DIARIUM MEUM PERSONALIS

アルコール消毒されたクリアな頭で考える!

2024年はどういう年になるか、AIに聞いてみた

AIが世界を幸せにするのか疑問に思う人は多いはず。しかし、どのような影響を与えるにせよ、世界を変えていくのは間違いないでしょう。

わたしの知っている世界で言えば、今まで他サイトのコピペで作られていた諸々のサイトが、今ではAIが作られるようになっています。プロンプトが具体的かつ限定的なら、AIはそれなりにいい答えを出すことがあるので、自称「SEOがわかっている何でも書ける」ウェブライター(英語ではcopierすなわち書き写し屋)に代わって、AIが仕事をするのは別に悪いことではないように思います。できれば、世界からコピペで作った金儲けサイトがなくなるのが理想です。人が作ったものであれ、AIが作ったものであれ。

きちんとした一部情報だけがサイトになっていて、AIがそれを適切にチョイスし正確にまとめ上げることができれば、見出しだけのサイトが不要になり、わたしたちの生活は便利になるでしょう。

 

今のところ、PCのウェブラウザー上やスマホ上ではそれほど賢いとは言えないAI君たちですが、巷での開発状況などを見ていると、限定的な使い方では効果を発揮するのだろうとは思います。

個人的にわたしは反スマホの立場を取り、できるだけスマホが自分の生活に介入してい来ないことを望んでいます。しかし、そういう問題とは別の問題としてAIがどういうものか知りたいとは思うわけです。

そこで、今回はAIに「2024年はどういう年になりますか?」と尋ねてみました。それに対する回答をご紹介します。

 

1.ChatGPT3.5

私のトレーニングデータの最終更新は2022年であり、その後の情報は持っていません。そのため、2024年の具体的な出来事や状況についてはわかりません。2024年は様々な分野でさまざまな出来事が起こる可能性があります。政治、経済、科学技術、エンターテインメントなどの分野で予測される動きや新たな発展が期待されます。

現実の2024年についての情報を知りたい場合は、最新のニュースやオンライン情報源を参照することをお勧めします。

2.Bing Copilot 

2024年の予測については、以下の情報があります:

- **日本経済**:2023年は日本経済にとって前向きな変化が多く見られた一年で、経済正常化が大幅に進みました。2024年の日本の実質GDP成長率は**+1.3%**と見込まれています。春闘での賃上げ率の前年超え、政府の総合経済対策の効果発現、実質賃金の前年比プラスへの転換などが経済の下支え・押し上げ要因となると予想されています。

- **リスク要因**:2024年は引き続き海外経済を中心に下振れリスク要因が多いとされています。具体的には、米銀行の貸出態度の厳格化による米国景気の大幅な悪化、中東情勢・ウクライナ情勢の緊迫化、中国の過剰債務問題の顕在化、米中対立の激化などが挙げられています。

以上の情報は予測に過ぎないため、実際の2024年がどのようになるかは未知数です。これらの予測は、現時点で利用可能な情報に基づいていますが、新たな情報が得られると予測は変わる可能性があります。

3.Chatsonic

### 2024年のトレンドと影響
2024年は、革新的な技術、グローバルイベント、そして日常生活における大きな変化の年として注目されています。以下に、2024年に予測される主要なトレンドとその社会への影響を示します。

### テクノロジーの最前線:2024年の注目ポイント
- **生成AIの躍進**: 生成AIのさらなる進歩とその社会への影響が考えられます.
- **AI技術のビジネスへの応用**: 2024年にはAI技術がビジネスへの応用で新たなトレンドを生み出すことが期待されています.

### パリオリンピックの全貌
- **新競技や注目**: パリオリンピック新競技やパリに大きな注目が集まる見込みです.
- **スポーツイベントが社会に与える影響**: パリオリンピックが文化的・経済的側面で社会に与える影響が深掘りされるでしょう.

### スマートフォンの進化と日常生活への影響
- **スマートフォントレンド**: 2024年にはスマートフォンのAI搭載アプリの進化が期待されており、これが日常生活に影響を与えることが予測されます.
- **モバイル技術が変える消費者行動と生活様式**: 最新のモバイル技術が消費者行動や生活様式に変化をもたらすでしょう.

### テクノロジーと文化の融合:新しい社会の形成
2024年には、テクノロジーと文化がさらに深く融合することが予想されます. これにより、デジタルメディアやオンラインコミュニティの影響が強まり、新しい文化的表現の場が生まれる見込みです.

### デジタル時代のライフスタイル:変わる日常とビジネス
- **デジタル化されるビジネスと日常生活**: リモートワークやメタバースの普及により、ビジネスと日常生活がデジタル化される傾向が加速する見込みです.
- **消費者行動と生活様式の変化**: これにより、働き方や消費行動に大きな変化が生じることが予想されます.

2024年は、テクノロジーの進化、スポーツイベント、スマートフォンの革新など、さまざまな分野で注目すべき変化が予想される年です。これらの変化は、私たちのビジネスや日常生活に新しい機会と挑戦をもたらし、社会全体の進歩に貢献するでしょう.

4.Monica AI

2024年は、さまざまな出来事やトレンドが予想される年です。政治、経済、科学技術、エンターテイメントなどの分野でさまざまな動きがありそうです。また、スポーツイベントや文化イベントなども注目されるでしょう。また、世界的な社会問題や環境問題に対する取り組みも進展する可能性があります。さまざまな分野での進展や変化が期待される一年になるでしょう。

 

5.Simplified

2024年は、以下のような特徴を持つ年になるかもしれません。

1. アメリカ合衆国大統領選挙: 2024年はアメリカ合衆国の大統領選挙が行われる予定です。この選挙では、新しい大統領が選出される可能性があります。

2. オリンピック: 2024年は、パリで夏季オリンピックが開催される予定です。世界中からアスリートや観客が集まり、様々な競技が行われるでしょう。

3. テクノロジーの進化: 2024年は、さまざまな分野でのテクノロジーの進化が期待されます。人工知能、ロボット工学、自動運転などの分野での進歩が予想されます。

4. 環境問題への取り組み: 2024年は、環境問題への取り組みがますます重要になる年かもしれません。気候変動や持続可能な開発に関する取り組みが進められるでしょう。

これらは予測であり、実際の出来事は変わる可能性があります。具体的な情報や出来事については、詳細な調査が必要です。

 

結論からすると、池上彰の見通しのほうが具体的で面白いと言わざるを得ません。AI君たち、もっと頑張れ。

「寄り添う」という言葉巧みに「すり寄る」企業

日本語はアイデアや情報をやり取りするための言語というよりは、単に感情を叩きつけるためだけにある言語かもしれない。日本語で作られた思想はなく、科学もない。日本語で日々やり取りされているのは、「あいつの言い方は気に入らない」とか「厚生労働省が言っているのだから、お前はこうしなければいけない」という感情の表明だけである。間違ってはいけない、「お前はこうしなければいけない」は日本語においては感情表明でしかない。ロジカルに人を諭す日本語話者はいない。(説教ばかりしている老人芸人を見よ!)

現在の商業日本語(商業日本語以外の日本語があると言っているのではない。日本語=商業日本語になり下がってしまった事態をシンプルに表現しているだけだ)話者は、ほんの少しのロジックさえついに捨てきって、「美しく響く言葉」をアクセサリーにすることを恥ずかしいとも思わず実行している。

アクセサリー言葉の例のひとつが「寄り添う」という言葉だ。

1.資生堂

資生堂「これまで以上に、お客さまの心に寄り添っていく」



笑っちゃいませんか?
「お客様に付き纏います」かと思ってしまいました。よくいうように化粧品には客観的な良さなどはなく、あるのは多少の「相性」くらいです。高い化粧品が優秀というわけではなく、安いものは悪いというわけでもない。世界の情勢を見れば、今後ますます普通に生きていく女性が不要に感じるはずのものが化粧品。化粧品会社も何とかしないといけないとは思うでしょう。それはそう。

「わたしはあなたの味方ですよ。何でも言ってください。」これはメーカーのスタンスではなく、販売店のスタンスであるべき資生堂は売り方までコントロールしたいなら、小売店で販売するのをやめて、完全に直販すればいい。まったく出過ぎたインチキ企業だと思う。

しかし、そういうインチキさを隠すのが「寄り添います」の一言なのだろう。日本語社会においては、これが機能しているらしい。

2.三井住友ファイナンスグループ

すべてのお客さまに寄り添うため「デザイン」に注力

「抵抗感がある方」と婉曲的に語られているが、これは正確に言えば「時代に追いつこうとしない人」の意味です。「そういう人にも使ってほしいの」という企業のメッセージは理解できます。

確かに日本で無駄金を持っている層はおもに高齢者で、デジタル非対応層です。でもそういう人に「寄り添う」必要なんてあります?「寄り添う」気なんてないでしょ。「付き纏って」生き血を吸いたいだけでしょ。

そう言ってしまうこともできないので、まずは「寄り添う」などという甘言をつかって「すり寄り」、最終的に「付き纏う」のでしょう。(サービス提供者側からしても、ほかにいくところがなくなっているので、「付き纏い」からは逃れるすべがない)。

結論

昔から「わたしたちはこんなに立派な会社です」と自画自賛している企業に誠実な企業はありませんでした。最近日本のテレビでは、自分たちはこんなにすごいと自慢している企業を見かけることが多くなっています。

・自分たちの技術はすごい
・自分たちは人類の未来を考えて行動している
・縁の下の力持ちです

こういうCMに入れている企業は、それをしなくてはならない事情があるのだと推測します。考えられるのは(1)利益を圧縮したい、(2)メディアの批判を受けたくないなどです。

某ケミカル系企業のように、各テレビ局に膨大なCM料を払っているため、危険かもしれない製品を作ってもマスメディアからは批判されないケースもあります。最近では、某インスタントラーメンの会社も商品の不健康さをテレビ番組で攻撃されないよう、無駄な広告をたくさん入れています。

問題は商業日本語世界にいるかぎり、言葉が金儲けの道具にしかなっていないことを認識できないという事実自体にあります。諦めるか、日本語を捨てるか、それは皆さんの判断に任せます。

 

 

クボシオリズムと秋元康の歌詞

Never Say Neverの歌詞とその違和感

乃木坂46の32枚目シングル『人は夢を二度見る』のカップリング曲、『Never Say Never』は次のように始まる。

一億回 君がもしも負けたって
僕は応援をし続けるよ

一部のファンはこの歌詞に違和感を持った。たとえばという話だとしても、「一億回負ける」という言い回し自体がネガティブではないかという意見だったと思う。

「一億回負けてもいいんだよ」と言われて励まされるのだろうかという疑問を抱いた人がいるのは当然のことだ。戦っている本人は「勝ちたい」と思っているはずだから。

歌詞を書き換えてみる

もしこれが次のような歌詞だったらどうだろう?

 

勝った君が好き
負けた君も好き
頑張っている君が好き
だから僕は応援を続ける

 

メロディーに乗っているかどうかはともかく、意味合いとしてはこちらのほうがしっくりくるのではないだろうか?

要するに、「試合の結果とは関係なく、頑張っている君が好き」という内容だ。こちらのほうがオリジナルよりはるかに前向きではないかと思う。このような応援をされたら、「とにかくできるだけのことはやってみよう」という気になるはずだ。応援歌としてふさわしい。

Never Say Neverのどこが問題か分析する

ではオリジナル歌詞の世界観のどこに問題があるのだろうか?それは一言で言えば、「なぜ君を応援するか」の理由に尽きる。

オリジナルは「とにかく君を応援する」と言っている。

それに対してわたしのアイデアは、「頑張っている君を応援している」という内容だ。

後者のほうがはるかに「応援歌」になっているはずだ。なぜなら、「できる限りの力を出し切る君が素敵だよ」と言うことが、「頑張れよ」というメッセージになるからだ。

一方、「とにかく応援するよ」は母親の応援の仕方でしかない。確かに「結果は関係ないんだよ。頑張ってやってきなさい」という応援もあるだろう。しかし、それは応援される側には届きにくいことがあるのだ。

しかも、「勝っても負けてもいいんだよ。いつでも応援しているよ」という応援をよく観察してみれば、そこに「応援する側のエゴ」が見え隠れする

言ってみれば、こういう言い方をする人は「たかが一試合の勝負のような、そんな小さなことを気にせず応援している自分はなんて心が広いのだろう。悔しがっている相手を優しく包んであげる自分はなんて素敵なんだ」という気持ちを隠せずにいる。

「僕」は自己満足のために「君」を「応援」(言い換えれば「利用」)しているのだ。

Never Say Neverの歌詞の世界と久保史緒里は似ている

この状況はなにかと似ていないだろうか?「無償の愛で応援している自分」をアピールしている人を思い出さないだろうか?

そう、久保史緒里だ。彼女は毎週オールナイトニッポンで、楽天イーグルスプロ野球、その他いま話題のスポーツがなんて感動的かを熱弁する。彼女の気持ちに嘘はないだろう。しかし、薄っぺらい。それだけでなく、一部のリスナーもなんとなく感じていることだが、楽天を一生懸命応援している自分が好き」感があまりに強すぎる

総じて「自分が大好き」な人である久保史緒里だが、彼女は野球もまた「野球を愛する自分の可愛らしい姿」を世間にアピールするための道具にしている。

確かに自己アピールはうまい。

乃木坂46には自己アピールが上手にできない人が多い中、よくやっている。芸能人としてはそれでいいのだろうと思う。

だが、それだけだとも言える。繰り返すが、薄っぺらい。わたしはこういう自己満足のありかたをクボシオリズムと呼ぶことにしたい。

秋元康はなぜクボシオリズムを取り入れた?

では、秋元康はなぜこのような歌詞を書いたのだろうか?久保史緒里の影響を受けたのだろうか?それはわからない。まあ、音数を数えて、言葉を埋めただけなのかも知れない。

いずれにしても「応援されている君の立場」よりも「応援している僕の立場」が優先されていることに間違いがない。まさにクボシオリズムそのものである。

いや……、と考える。説教好きの秋元康だから、もしかしたら「反面教師」となるように、この歌詞を作ったのか?可能性は低いが、そうかも知れない。いや……。何もわからない。

「相手の気持ちを考える」ことの難しさ

Never Say Neverはクボシオリズムの歌である。それは、「相手の立場」よりも「自分の気持ち」を優先しているから。「一億回君がもしも負けたって 僕は応援をし続けるよ」では、「君」に届かないのだ。

日本にはやたらと「相手の気持ちを考えろ」と言う人が多い。それはそれでくだらない。

言うまでもなく「相手の気持ち」などわかるはずがないからだ。そういう場合に取れる方法論は一つしかない。カントの道徳論だ。簡単にまとめると、「相手の立場に立ったとき、自分がしてもらいたいことをしろ」というルールだ。

確かに「自分だったら、こうしてもらいたいこと」と「実際に相手がしてもらいたいこと」とが同じであるとは限らない。だが、「自分の気持ち」だけを押し付けてくる人よりはましだろう。

このルールに従い、最初に書き換え案で提示した通り、「頑張っている君を見ていると応援したくなる」とするのが一番人の心に響くのではないだろうか?

実際、こう言われれば、ほとんどの人が発奮するだろう。「負けてもいいよ。応援するよ」と言われたら突き放されたように感じたり、逆に付きまとわれているように感じる人だとしてもだ。

こういった小さな違いがわかるかどうかが人間のクオリティーを決める。

もっとも、久保史緒里はまだ22歳。クボシオリズム全開で構わない年齢だろう。ただ、いい大人のクボシオリズムは見苦しい。

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