DIARIUM MEUM PERSONALIS

アルコール消毒されたクリアな頭で考える!

クボシオリズムと秋元康の歌詞

Never Say Neverの歌詞とその違和感

乃木坂46の32枚目シングル『人は夢を二度見る』のカップリング曲、『Never Say Never』は次のように始まる。

一億回 君がもしも負けたって
僕は応援をし続けるよ

一部のファンはこの歌詞に違和感を持った。たとえばという話だとしても、「一億回負ける」という言い回し自体がネガティブではないかという意見だったと思う。

「一億回負けてもいいんだよ」と言われて励まされるのだろうかという疑問を抱いた人がいるのは当然のことだ。戦っている本人は「勝ちたい」と思っているはずだから。

歌詞を書き換えてみる

もしこれが次のような歌詞だったらどうだろう?

 

勝った君が好き
負けた君も好き
頑張っている君が好き
だから僕は応援を続ける

 

メロディーに乗っているかどうかはともかく、意味合いとしてはこちらのほうがしっくりくるのではないだろうか?

要するに、「試合の結果とは関係なく、頑張っている君が好き」という内容だ。こちらのほうがオリジナルよりはるかに前向きではないかと思う。このような応援をされたら、「とにかくできるだけのことはやってみよう」という気になるはずだ。応援歌としてふさわしい。

Never Say Neverのどこが問題か分析する

ではオリジナル歌詞の世界観のどこに問題があるのだろうか?それは一言で言えば、「なぜ君を応援するか」の理由に尽きる。

オリジナルは「とにかく君を応援する」と言っている。

それに対してわたしのアイデアは、「頑張っている君を応援している」という内容だ。

後者のほうがはるかに「応援歌」になっているはずだ。なぜなら、「できる限りの力を出し切る君が素敵だよ」と言うことが、「頑張れよ」というメッセージになるからだ。

一方、「とにかく応援するよ」は母親の応援の仕方でしかない。確かに「結果は関係ないんだよ。頑張ってやってきなさい」という応援もあるだろう。しかし、それは応援される側には届きにくいことがあるのだ。

しかも、「勝っても負けてもいいんだよ。いつでも応援しているよ」という応援をよく観察してみれば、そこに「応援する側のエゴ」が見え隠れする

言ってみれば、こういう言い方をする人は「たかが一試合の勝負のような、そんな小さなことを気にせず応援している自分はなんて心が広いのだろう。悔しがっている相手を優しく包んであげる自分はなんて素敵なんだ」という気持ちを隠せずにいる。

「僕」は自己満足のために「君」を「応援」(言い換えれば「利用」)しているのだ。

Never Say Neverの歌詞の世界と久保史緒里は似ている

この状況はなにかと似ていないだろうか?「無償の愛で応援している自分」をアピールしている人を思い出さないだろうか?

そう、久保史緒里だ。彼女は毎週オールナイトニッポンで、楽天イーグルスプロ野球、その他いま話題のスポーツがなんて感動的かを熱弁する。彼女の気持ちに嘘はないだろう。しかし、薄っぺらい。それだけでなく、一部のリスナーもなんとなく感じていることだが、楽天を一生懸命応援している自分が好き」感があまりに強すぎる

総じて「自分が大好き」な人である久保史緒里だが、彼女は野球もまた「野球を愛する自分の可愛らしい姿」を世間にアピールするための道具にしている。

確かに自己アピールはうまい。

乃木坂46には自己アピールが上手にできない人が多い中、よくやっている。芸能人としてはそれでいいのだろうと思う。

だが、それだけだとも言える。繰り返すが、薄っぺらい。わたしはこういう自己満足のありかたをクボシオリズムと呼ぶことにしたい。

秋元康はなぜクボシオリズムを取り入れた?

では、秋元康はなぜこのような歌詞を書いたのだろうか?久保史緒里の影響を受けたのだろうか?それはわからない。まあ、音数を数えて、言葉を埋めただけなのかも知れない。

いずれにしても「応援されている君の立場」よりも「応援している僕の立場」が優先されていることに間違いがない。まさにクボシオリズムそのものである。

いや……、と考える。説教好きの秋元康だから、もしかしたら「反面教師」となるように、この歌詞を作ったのか?可能性は低いが、そうかも知れない。いや……。何もわからない。

「相手の気持ちを考える」ことの難しさ

Never Say Neverはクボシオリズムの歌である。それは、「相手の立場」よりも「自分の気持ち」を優先しているから。「一億回君がもしも負けたって 僕は応援をし続けるよ」では、「君」に届かないのだ。

日本にはやたらと「相手の気持ちを考えろ」と言う人が多い。それはそれでくだらない。

言うまでもなく「相手の気持ち」などわかるはずがないからだ。そういう場合に取れる方法論は一つしかない。カントの道徳論だ。簡単にまとめると、「相手の立場に立ったとき、自分がしてもらいたいことをしろ」というルールだ。

確かに「自分だったら、こうしてもらいたいこと」と「実際に相手がしてもらいたいこと」とが同じであるとは限らない。だが、「自分の気持ち」だけを押し付けてくる人よりはましだろう。

このルールに従い、最初に書き換え案で提示した通り、「頑張っている君を見ていると応援したくなる」とするのが一番人の心に響くのではないだろうか?

実際、こう言われれば、ほとんどの人が発奮するだろう。「負けてもいいよ。応援するよ」と言われたら突き放されたように感じたり、逆に付きまとわれているように感じる人だとしてもだ。

こういった小さな違いがわかるかどうかが人間のクオリティーを決める。

もっとも、久保史緒里はまだ22歳。クボシオリズム全開で構わない年齢だろう。ただ、いい大人のクボシオリズムは見苦しい。

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